前略、西沢立衛様
なんて美しく話すひとだろうと思いました。
それは語彙が豊かとか語りが流ちょうとか、そういうことでなく、責任と誠実さをこめながら、凛(りん)としてまわりにことばを発しているという意味で。雑誌などで見る西沢さんはいつだって怒りと不満を抱えていそうで、無条件攻撃的なひとなのではと勝手におそれていました。でも今晩のレクチャーを聴いて、ごめんなさい、それがまったくの思いちがいであることがわかりました。
西沢さんのことばは思慮深い老亀のように明敏で、寡黙な木こりのように飾らず実直で、しかも相手につたえようとするエネルギーによって、それらがいきいきと生命力を漲(みなぎ)らせています。必要十分な内容を過不足なく自分のことばで表現するということは、実際とても骨の折れる作業なのだけれど、おれは絶対それを怠らないよ、という強い意志のようなものを感じました。相手の言うことを受け流さず、自分の考えに真摯(しんし)であること。まだことばにできないことは何か、人間が考えられないこととはいったい何なのか、スライドのひとつひとつからそんな思いが滲(にじ)み出てくるような講演でした。
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ぼくは、ことばとはきわめて知的で緻密で限定的な表現だと思っています。だからことばは時にかたちをしめつけ、ひどく凡庸で的はずれなものへと仕立てあげることがあります。逆にかたちは自由で感覚的で開放的な表現であるから、その意図や効果や分からないまま、知らずに通り過ぎてしまうこともよくあります。建築家は運命的にそのふたつを行ったり来たりしなくちゃならない職業ですが、それらは宿命的にかならず破綻をきたします。そんなこと百も承知なんだけど、それをはなからみとめてどちらかに没頭するか、あるいはその誤差をなんとか縮めるのか、そこにはフライパンとコッペパンくらいの大きな差異があるのです。
近代建築は「空間」なんていうなんともあやしいオウラをまとっていたけれど、実のところことばの建築であって、それが長年の誤解や解釈の違いによって、当初の思いとは見当ちがいなものになってしまった部分もありました。むしろ皮肉なことに、そんなことばなんてほとんど無視されてできた現実の街並みほど、いさぎよく多様で魅力的だったりします。中途半端に「モダン」を分かったつもりで、ひとりひとりが自分のことばで考える作業をさぼってきたから、そのつけがいままさに押し寄せてきているのではないでしょうか。
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西沢さんにとってことばをつくるという行為は、そういった矛盾や疑問をひとつひとつ潰していって、自分にも他人にも隠さず種あかしをしながら、ものごとのしくみを明解に理解するための作業なのですね。できた建物は正直なことばによって説明されるからこそ、抽象的で普遍的なのだけれど、そのことばは、自分のあたまのなかを整理するために考案された特注品であって、それは全国ルールや未来の模範になるようなものではありません。だからことばにもむだがない。むだのないことばはむだのないかたちをつくります。「テイストで勝負したくない」とつぶやいた西沢さんの建物は、いろんなものがそぎ落とされて、もう床と壁と天井と窓くらいしか残っていないんだけれど、そういう極限的な条件のなかでいかにかたちを考えていけるか、心からたのしんでいるようでした。(ふしぎなことにそれは倒置とか反復とか、やっぱりどことなく文法的な振る舞いを感じさせます。)たくさんの図面や模型写真を見たりその説明を聞いたりしながら、ことばもかたちも、同じ要素をつかっても順序や配置や区切りをほんの少し変えただけで、こんなにも劇的に変わるのか、とあらためて実感しました。
なにかひとつの選択肢を勇気をもって選ぶということは、一見するとそれ以外の無限の可能性を放棄することと同じのようですが、実はそうでもなくて、たとえば良いかたちは、いったんつくってしまえば、そのあとにそれ以上の良い解釈をたくさん呼び起こします。毎回毎回それをことばからつくりなおす作業を面倒臭がらずにいることこそが立西衛沢、いや西沢立衛のひみつであって、ことばを生みだすためのことば、かたちをつくりだすためのかたちなんてそろそろやめようよ、と熱っぽく語りかけているようでした。
「ありえたはずの近代」ということばの意味が、今ごろになってがぜん気になってきて困っています。
草々
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