オルタナティブ・ポストモダン
青木淳の建築におけるテーマは、この数年の間に内から外へ、つまり「動線体」から「装飾」へと、まるで靴下を裏返すように見事に裏返ってしまいました。かつて青木が動線体という言葉を使っていたころ、青木は建築のナカミから建築を始め、いわばモダニズムの空間構成のオルタナティブとしての建築を作ってきました。しかし、こうしたナカミを扱うことが困難なルイ・ヴィトンの仕事との出会いが、青木を建築の表層や境界へと取り組ませることになります。でも、表層のイメージへの取り組みには、際限ない引用と解釈の言語ゲームに向かっていったポストモダニズムという“先輩”がいます。そうした現状の中で、青木はあえて「装飾」という手垢のついた言葉を用いつつ、こうしたポストモダンのオルタナティブの可能性を探っているようです。
そもそも現象である
最近のプロジェクトでスタディされたパンチングメタルによる「カムフラージュ・パターン」は、そんな青木の問題意識を明快に示しています。このカムフラージュ・パターンとは俗にいう迷彩柄のことですが、この柄はいわゆる図と地を持っていない柄です。つまりこの柄は観察しても、一つのパターンに認識を固定することができません。そのため、それはメッセージを持たない純粋なイメージとなることができます。ポストモダニズムが図像のメッセージ(意味)にこだわり、その引用と解釈に明け暮れたのに対し、青木は装飾からそうしたメッセージ性を排除し、純粋な現象として取り扱っているのです。イメージが一つのパターンとして固定的に認識されれば、そこで人間の認識は閉じてしまいます。そのためイメージを認識以前の状態に留め続けるため、青木はイメージの内容ではなく、その「解像度」と「スケール」こそを操作の対象にします。そのスタディはもはや1/1でしか、現物でしか確認しか行うことができません。それは解像度もスケールも、観察する人間あってのパラメーターだからです。
さて、そんな上っ面じゃなくてもっと建築の本質を追おうよという人もいるでしょう。でも、建築がそもそも現象であるとしたらどうでしょう。モアレやカムフラージュも建物と人間の間で起こる現象であり、建物そのものの中にあるものではありません。もし、それが本当なら一見表層的に見える青木のアプローチは、それが表層にとどまるがゆえに、建築の「中」に本質を追おうと躍起になってきたモダンへの深い問題提起となっています。「もっとも深いもの、それは表面である」とは近代のフランスの詩人の言葉ですが、思えば随分と意味深な言葉です。
小屋にペンキを塗るのは誰だ
さて、お互い多様性に興味を示しながらも、伊東と青木の立場はずいぶんと異なっているようです。その例として青木はポストモダンを切り開いた建築家、ロバート・ヴェンチューリの「アヒル(duck)」と「装飾された小屋(decorated
shed)」の議論を取り上げました。青木は伊東のTOD'S表参道に見られるような意匠と構造の一体化がむしろ装飾を構造に縛りつけており、多元性を認めない排他的なモダニズムの「アヒル(duck)」モデルと同型をなしていると考えます。そして、青木は「装飾された小屋(decorated
shed)」モデル、つまり装飾を他の領域から切り離すことによって、装飾と建築の可能性が広がると考えるのです。しかし、その一方で伊東の建築はそれらを一体化することで、建築の全体に新しい秩序を生み出しています。これに対し、青木の建築が現象の面だけから建築の全体に行き渡る秩序を打ち立てることができるのか、答えはまだ出ていないように思われます。
また、伊東は建築を出来事と捉えることで、建築を作り手の自意識の制約から解放しようとします。つまり、アルゴリズムという形のルールを作ることで、ただ形そのものを作って表現するということを回避します。いわば、餌のとり方だけを教わって手を離れたアヒルは、飼い主にはどう育つか分からないわけです。その一方で、青木は作り手として建築をあくまでコントロールすることが必要と考えます。それは、いかなるアルゴリズムを用いようと、最後にそれを止めるという意思決定をするのが、建築家であることに変わりはないからです。つまり、勝手に育ったアヒルの中から一匹を選別するのも、小屋にペンキを塗るのも結局建築家だと青木は考えているのです。
建築の本質を守りつつ、建築を作る行為を解放しようとする伊東と、建築を作る行為を守りつつ、建築を本質という強迫観念から解放しようとする青木。講演は2回目を迎え、その共通点と差異を露にしようとしています。
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