今回の講演は、単なる近作の紹介にとどまらず、まさに羽化しようとしている伊東豊雄の「とれたての今」を伝えるイキのいい講演会になりました。講演では、何か吹っ切れたようにすら見える今の伊東が、建築というものが抱える本質的な矛盾を一貫して追い続けていることが述べられました。
彼が追ってきたのは、建築というものが抱える本質的な矛盾です。建築とは、世界に形を与えることに他なりませんが、同時に建築が作られることによって、世界はある形に限定されてしまいます。つまり、建築家は自由を実現するために、世界を固定することしかできない建築を作るという矛盾の中にいます。伊東は長い間常にそんな建築の宿命と戦い、そして今、自分なりの答えを出そうとしているのです。ここでは講演の中で伊東の提示した概念を追いながら、そんな伊東の今を見てみることにしましょう。
「能」と「場」
近代は計画学の名前の下に、人間の行動を細分化して明快に定義してきました。しかし、伊東はそんな割り切れた分かりやすい近代的(モダン)な身体像に疑問を投げかけます。そして伊東は、これに代わる身体の概念として、「能」をとりあげます。バレエなどの西洋的な舞踊が、基本的な運動単位の線形な重ね合わせで機械的に構成されるのに対し、能とはまさに分割不可能な「流れ」で構成されるものです。そのような流体的な身体感覚がこの10-20年で広がってきたこと、そして空間の側がいまだ対応できず、身体の自由の可能性を限定してしまっていると伊東は考えているのです。
身体を流れとして捉えるならば、建築はもはや固定された機能をもった空間形式ではなく、流れを受け入れる「場」として、つまり一つのプロセスととして想定されることになります。そしてそのような流動的な場を、伊東は「森」に例えます。それが広場でなく森であるというのは、お互いに場は共有しつつも同じ方向を向かずに離散的に動いているという、電子時代の我々の身体のあり方を指し示すでしょう。そして、近代の計画学的な空間の分節を拒否し、建築を動きと場所の連鎖として捉えることで、伊東は「建築が世界を限定する」という問題に答えようとしているのです。
自己生成
近年の伊東を特徴付けるものの一つがARUPのセシル・バルモンドとの協同による自己生成的な形態であることは指摘するまでもないでしょう。講演においても、結び目が成長していくかのようなコインブラのパヴィリオンや、アルゴリズムによって柱の傾きが決定されたセルフリッジの百貨店といった、セシルとの刺激的な最新プロジェクトが紹介されました。
ですが、伊東がアルゴリズムなどを用いた自己生成する形を使うのには、おそらく単なる形態の新規さ以上の理由があります。「建築は非線形の出来事である」と語る伊東においては、建築の作られ方もまた一つのプロセスであらねばならないのです。そして、ピュアな幾何学的抽象性を好む近代建築が、建築家の自意識の聖域に閉じこもり、予測可能で制御可能な形に陥るのに対し、簡単なルールをオーバードライブさせることで自分が予想もしない複雑な形を生み出す自己生成のダイナミクスは、軽々と慣習的な制約や自我の境界を逃れていきます。つまり、自己生成は「建築が形を作ること」を開放する一つの手段となるからです。
「曖昧な複雑さ」
モダニズムがピュアな明快さを求めるがゆえに、排他的(exclusive)な閉塞に陥っていると考える伊東は、モダニズムが忌み嫌った曖昧さ、複雑さ、包括性(inclusive)へと向かっていきます。つまり、機械のように明確に区分されて表現された近代の建築ではなく、曖昧で複雑で全てを包含する何かが現代の建築として目指されていくのです。そうした複雑さは結果としての複雑さであって、決して複雑に見える表現ではありません。複雑であることがある点を越えて、もはや表現というものが問題にならなくなるようなそんな地点まで、建築を持ち込みたいと伊東は考えているのです。
さて、そうした伊東の発言は、近代が黙殺してきた一人の建築家、アントニオ・ガウディの名を思い起こさせます。ガウディがコンピューターのない時代に、構造的合理性と、幾何学的整合性と、施工性をも考慮した有機的形態を展開していたことは、近年広く知られるようになってきました。だが、それらは曖昧に融合され、複雑に展開されていたために、ピュアさと明快さを求める近代ではほとんど評価されてこなかったのです。伊東の思考は、近代を飛び越えてこのような前-近代のガウディの思考とつながっていくでしょう。
素材
「ディテールを減らせばきれいに決まっている」と、伊東豊雄は言います。そしてミニマリズムが巾をきかせる現代にあって、伊東豊雄はあくまでそうしたアプローチを拒否し続けています。でも、伊東は単なる建築的な納まりの好みの問題の話をしているわけではありません。そうではなくて伊東は、コンセプトとものの、モデルとリアルの関係について話をしているのです。
モダニズムは建築を建てるにあたり、想定したモデルをピュアに再現するべく、曖昧な部分を排除し、明快に構成することを目指してきました。いってみれば、モダニズムは世界の複雑さに背を向けて排他的に自律することで、建築の完結性を高めてきたわけです。しかし、伊東は現実の多様性を許容し、コンセプトを現実の世界にドラマとして展開することを選択します。講演の締めくくりにあたり、伊東は「きれいにまとめるということの意味を考えて欲しい」と問いかけました。それは多様で複雑で予想不可能な世界に生きる我々にとって、もはや避けては通れない問題となるでしょう。
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