今回、オーストラリア在住のナイジェル・バートラムは、メルボルンに90年代にできた高速道路に沿った環境をレポートしてくれた。
メルボルンの郊外は低層で低密なためか、一見すると取り留めもないような散逸した光景が広がっており、墓地や公園、駐車場、スポーツ・フィールド、送電線の下の土地など、多くの「空いている土地」がレポートされている。

これらの空いている土地は都市の外部空間ではあるが、19世紀末にカミロ・ジッテが復興を願ったような広場や、60年代末から芦原義信が必要性を説いた街路や広場の街並みなど、大文字の都市の外部空間というよりは、送電線の磁場回避ゾーン、洪水防止の遊水地、役目を終えた採石場、未利用地といった、公共に利用することを前提としないものも多い。
こうした空いてしまったり、建物を建てられないような外部空間のいくつかには芝生が茂り、周辺の住人のための公園や裏庭として機能しており、結果的にできてしまったような場所が、事後的に「広場」として見いだされている。また、郊外の移り変わりの早い環境において、これらの空いている土地は最も環境の安定したエリアになっているのも興味深い。

今回は、このような「空いている土地」について考えてみたい。

まず、やや抽象的になるかもしれないが、空いていることを空間のモデルとして考えてみる。
通常、「空き地」と呼ばれる土地は、都市計画では未利用地に相当し、用途上「空いている」土地のことである。一方、「都市の外部空間」と言うと、どうしても広場や街路などの目的化したものを想定してしまう。これらに対して、使われているか使われていないかはともかく、空間の水準で、建物や構築物の集合に対して「空いている」というカテゴリーが想定できるはずで、それを「空地(クウチ)」と呼んでみる。

空地は社会的には、様々にカテゴライズされている。例えば、パブリック/プライベートという水準によって「庭」と「公園」というカテゴリーに、用途の水準では「未利用地」とその他の「利用地」に、さらにその用途によって資料集成的にカテゴライズされ、交通の水準では「街路」や「遊歩道」に分節されている。「空地」というカテゴリーを用意することで、これらの分節されたカテゴリーを一旦保留して空間の形式として見ることができる。

こうした上で「空地」の価値を考えると、それは都市空間における「ゼロ記号」のようなものである。ゼロ記号とは、『存在しないこと自体がひとつの能記として機能している』註1ような記号のことである。ここでは言語学や記号論とのアナロジーをすることが目的ではないが、モデルとして整理しやすいのでこれに沿って考えてみる。ゼロ記号には大きく2つのあり方がある。

第一に、例えば英語で『the man I have seen』という時に省略されている関係代名詞註2のようなものである(シンタグムでのゼロ記号)。この例では、「the man」と「I have seen」の間には何もないが、この先行詞と従属節は「ないこと」によって相互に関係づけられていて、これらの間には『ゼロによって表された単位』がある。物理的には何も無いが、隣接するものとの関係によって「無いこと」自体が文法上の単位になっている。
都市空間における空地も、物理的に建蔽するものはないが、それに隣接する建物や構築物を関係づけることがある。つまり、空地は全く何もない白紙状態(タブラ・ラサ)とは違い、周囲にあるモノとの関係によって「空いている」と見いだされる。空地の特徴のひとつは、周囲にあるモノの配列における「ネットワークの単位」となりうることである。

第二のあり方として、チェコ語で「zena」という名詞と、その複数形「zen」の例註2が挙げられる。チェコ語のことは分からなくても、ここで「n」の後に何もないことが2つの語の関係から複数形という意味をもつことは理解できる(パラディグム上のゼロ記号)。
都市空間の場合、建蔽されている敷地に対して、建っていない部分をもつ敷地が、ある種の条件と表裏一体となっていることがある。メルボルンでレポートされた建設禁止エリアの空地では、「空いている」ことが、送電線がその頭上に走っていることや、洪水の際に冠水するといった条件を伴っている。また、公開空地というのは、空いていることが高い建物を建てることの条件となっている。
かつてレム・コールハースは、パリ郊外のムーラン・セナール都市計画のコンペで、TGVの防音ゾーン、周囲の森のエッジを視覚化するゾーン、高速道路沿いの開発予定地など、帯状の空地の配列による都市計画を提案した。このように空いている土地の用途は、何も公園のようなパブリックなものだけではない。
空地とは第二に建蔽されていることに対する「空いていることの意味の広がり」として理解できる。


このように「空地」というカテゴリーを用意することで、都市の外部空間をより広がりをもって捉えることができる。
実際、東京には広場や街路ではないが、ちょっと変な空地がたくさんある。

例えば、小川や水路が暗渠化されてできる「緑道」は、街路とも広場とも言えないような変な空地だ。筆者の住む住宅地にある緑道は、比較的最近になって暗渠化されたため、左右に立ち並ぶどの住宅にもアクセスできない。この場合、道のような線状の形状をしていて建物に囲まれていることは街路と同じなのだが、アクセスという機能をもたず、両端の街路を結ぶネットワークにだけなっている空地である。渋谷川が暗渠化されたキャットストリートも緑道だが、古くからある住宅にはこの道からは入れず、比較的新しくできた店舗はエントランスを向けて新たなネットワークを形成している。
「駅前広場」というのも変な空地だ。本来は街路なのだが、市街地の高密度な建物に取り囲まれることで広場化している。渋谷のハチ公口は、街路網として見れば単なる交差点だが、ハチ公前広場の広がりを伴いながら、隣接する建物と看板に囲まれることで広場としてのまとまりを感じる。さらに109や丸井、セルリアンタワーなど、数街区離れた建物が見えることで、これらによっても囲まれる印象を受け、これらの建物が視覚的にネットワークされてもいる。

東京の都市空間は公園面積が少なくパブリックな外部空間に乏しいと言われるが、このように「空地」というカテゴリーを考えれば豊かな外部空間がある。これらは小文字のパブリック・スペースとして、都市の中で生きられているのではないだろうか。


(註1)R・バルト『記号学の原理』
(註2)丸山圭三郎『ソシュールの思想』




profile

安森亮雄(Akio Yasumori)
1972年生まれ。建築家・都市研究(都市の空地の空間構成)
1996年、チーム・メイド・イン・トーキョー参加
1998-99年、ベルラーヘ・インスティテュート(オランダ)
2002年、東京工業大学大学院博士課程 単位取得退学
現在、東京工業大学大学 技術補佐員

主な作品に
「Tokyo Suburb Void Map」,「LA Surface Urbanist's Catalogue&Tutorial」(『10+1』No.24, 『Hunch』No.1)、
「Sport-Voids Home」(新建築住宅設計競技2001・佳作、『新建築』0112,『JA』No.44)、
「森の戸建集合住宅」(播磨科学公園都市・戸建住宅コンペティション・最優秀賞、『新建築』9708)、
「距離を彫る家」(第六回エスバイエル住宅設計コンペティション・妹島和世賞、『新建築』9607)など。


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