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ロサンゼルスには2つのイメージを持っている。
一方のイメージは、温暖でアミューズメントに溢れたライトな都市である。
数年前の秋に、筆者はスタン・アレンらとともに数週間ロスを訪れ、レンタカーでフリーウェイを走り回ってリサーチをしたことがある(詳細は、拙稿「空地のリサーチ」、『10+1』No.24、INAX出版を参考にされたい)。
何日かは現存するケース・スタディ・ハウスを訪れたが、イームズ邸の外壁パネルはまさにペラペラの薄さで、多少の隙間すら伴っており、その建物の軽快さがロスの温暖な気候によって成り立っていると妙に納得した。自転車をレンタルしてビーチ沿いのサイクリング・ロードを走れば、点在するキャンピング施設やサンタモニカの遊園地などを一巡でき、中にはマッスル・ビーチという名の屋外スポーツ・コンプレックスが、いかにもアメリカ人らしい健康崇拝の実践場所としてビーチの風景の一部をなしていた。グリフィス天文台からは、フラットな地形に引かれたグリッド街路が手に取るように見え、アメリカ西海岸の都市が何もない砂漠だった平野に作られたことを実感した。
初めて訪れたロスの印象は、そのような『ビバリーヒルズ青春白書』さながらの、温暖な気候を味方にしてインスタントに作られた都市というものだ。
もう一方のイメージは、マイク・デイビスの『City of Quarts』(邦題『要塞都市LA』、青土社)などで知られるところとなった、人種と階層で分節され犯罪の恐怖にかられた都市である。
日本のアパートやマンションでも、オートロック付きというは今や当然のセールスポイントだが、ロスでは住宅地全体が塀と門でロックされたゲーテッド・コミュニティが隆盛を極めている。(前回までのレポートから、霜田氏によって東海岸のボストン、Shiuan-Wen 氏によってヨハネスブルグにおいてもその存在が報告されている。また五十嵐氏がすでに多く言及しているので参照されたい。「アポカリプスの都市」、『終わりの建築/始まりの建築』INAX出版)。それは旅行者の目にはあまり触れないが、もうひとつのロスのイメージ、要塞都市である。
今回の宮内氏のレポートは、そんな両面をもつロスのダウンタウンの再開発についての報告である。
興味深いのは、ダウンタウンにおいてミニLAとでもいうべきコンプレックスが成立していることである。ステープルセンターは、NBAのスタジアム、ホテル、ショッピングモール、さらに隣のコンベンション・センターが一体化した巨大な複合体となっている。ベルモウント高校のコンプレックスでは、学校とショッピングモールが一体化している。また、ポートマン設計のボナベンチャー・ホテルでは、かつてソファの置かれていたアトリウムの円環状のデッキが、筆者が訪れた際には、エクササイズマシンの置かれたジョギングコースとなっていた。
スポーツ施設やショッピングモールなどはもともと郊外型の娯楽施設であり、ロスのビーチや郊外に分散していたものである。先に挙げた建物では、これら用途別に分節されていた郊外型施設が、ホテルや学校などのダウンタウンの施設にスーパーインポーズされたように見える。つまり、巨視的には、郊外のダウンタウンへの挿入と言える現象が起きているのである。同時に、こういった複合化はほとんど建物の内部で成立しており、ロスの縮図としてのミニLA内部空間がダウンタウンに出来ているとも言える。
このような郊外施設の都市中心部へのスーパーインポーズという戦略は、スラム化したダウンタウンの再開発にとってひとつの有効な手段となっているようである。(宮内氏によれば、ベルモウント高校の商業施設とのコンプレックス計画は、LAUFD(ロス学区)による資金不足と土地不足の解決策であるそうだ。)しかし、このようにダウンタウンをより多くの階層に開かれたものにしようとプログラムの複合が進む一方で、これらが内部空間化していることには、ゲーテッド・シティ同様のセキュリティ的な要請を読み取ることができる。
この空間のセキュリティの問題は、ロスほどではないにしても日本でも顕著になりつつある。
6月に起きた大阪の池田小での児童殺傷事件は、近年の流れであった「開かれた学校(オープン・スクール)」に対して、突如として大量殺人を含む生命の危険にさらされる可能性があることを突きつけた。事件の与えたインパクトから、文部科学省は公立学校に安全対策の強化を指示し、財政支援も検討されている。最近の報道によれば、事件現場となった小学校では校舎の取り壊しが検討されており、近くの大学分校跡地にプレハブの仮校舎が建設中である。仮校舎は敷地をフェンスで囲んだ上でロの字型の配置となり、侵入口となったテラスは中庭に配され、校舎内に監視カメラ7台が設置される予定だという。
この事件は、久しく安全はタダではなくなった日本の都市のセキュリティの問題を再び認識させたが、ここで重要なのは、一連の経過においてセキュリティの問題が、建物の配置や動線といった空間の形式に直接的に反映されたことである。
これに対して、オープン・スクールを擁護する立場から、「オープンだからこそ安全だ」という主張がなされた。学校を開放して地域社会の人々を招き入れることは、むしろ侵入者の監視に役立つというものである。この主張は、セキュリティの問題を直接的に空間の問題に結びつけず、それとは独立して空間のオープンさが可能だとする点でひとまず賛同したいところだが、しかしここには次のようなレトリックがある。
オープン・スクールの構想は、しばしば地域コミュニティの復権と連動し、学校と地域社会との連続性を目指すものである。つまりこのオープンさは、それを包含するコミュニティが安全であるという前提によって保証されている。それが一旦そのコミュニティの均質性を越えて他者の侵入や存在にさらされた時に、、オープン・スクールという構想自体が急に脆弱なものになってくるのである。(ちなみに、池田小は大学付属校であり、そもそも地域社会とは独立した学校であった。)
一般に均質性は同時に排他性を伴うことを考えれば、ここでの地域社会にはゲーテッド・コミュニティのような塀と門によるコントロールは無いものの、実はそれと同様の、学校を包含する地域による排他性があり、その下に学校の開放性が成立していたことに気づかされる。つまりオープン・スクールにおける建築の開放性は、それを包含する地域の閉鎖性によって保証されているという、スケールにおけるセキュリティの補完関係が成立しているのである。このことは、例えばゲーテッド・コミュニティの内部においては、完全に空間として開かれたオープン・スクールも可能だろうという思考実験をすれば明らかだろう。開放的な空間が、それを包含するエリアの閉鎖性によって保証されるとしたら、これはかなりの皮肉である。
ケース・スタディ・ハウスの時代のロス周辺の住宅は、考えてみれば、クーニッヒのシュタール邸や、アルバート・フライの自邸のようにロスを眺望するような丘の上に建っているものも少なくなく、現在行ってみると、敷地を塀に囲まれているものも多い。ケース・スタディ・ハウスのペラペラな軽快さは、ロスの温暖な気候に支えられているとともに、現在ではセキュリティの確保によって保証されているのかもしれない。
このように、時に空間をオープンにしようとすればするほど、建築のレベルあるいはそれを包含する都市のレベルでセキュリティが要請され、しばしば直接的に空間が囲い込まれる傾向を見る時、単にロサンゼルス川沿いの16万平方メートルの空地を公園にするという計画も、それがある種の多様性を受け止めるような開放性を期待させ、どこか可能性をもって聞こえてくるのである。
profile
安森亮雄(Akio Yasumori)
1972年生まれ。建築家・都市研究(都市の空地の空間構成)
1996年、チーム・メイド・イン・トーキョー参加
1998-99年、ベルラーヘ・インスティテュート(オランダ)
2002年、東京工業大学大学院博士課程 単位取得退学
現在、東京工業大学大学 技術補佐員
主な作品に
「Tokyo Suburb Void Map」,「LA Surface Urbanist's Catalogue&Tutorial」(『10+1』No.24, 『Hunch』No.1)、
「Sport-Voids Home」(新建築住宅設計競技2001・佳作、『新建築』0112,『JA』No.44)、
「森の戸建集合住宅」(播磨科学公園都市・戸建住宅コンペティション・最優秀賞、『新建築』9708)、
「距離を彫る家」(第六回エスバイエル住宅設計コンペティション・妹島和世賞、『新建築』9607)など。
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