「シンガポールの公共集合住宅 コンテクストとアイデンティティ」
Lee Tat Haur(李 達豪) 訳:安森亮雄


シンガポールの集合住宅と開発局
シンガポールの人口の86%は、政府の住宅開発局(HDB: Housing Development Board)によって建設・運営されている集合住宅に住んでおり、公共集合住宅はシンガポールの都市の文化にとって不可欠なコンテクストとなっている(図1)。

シンガポール国立大学の教授であり社会学者のChua Beng Huatは、その著書『政治的合法性と集合住宅 シンガポールの財産管理』において以下のように述べている。「世界の先進国におけるソーシャルハウジングがことごとく失敗したのに対して、シンガポールの公営住宅の継続的な国家プログラムはきわだった例外となっている。…HDBとその集合住宅は、シンガポール政府の公的、国際的なショーケースの一部である。 *」このエッセイでは、彼の記述をHDB集合住宅の2つの側面に焦点を当てて説明しようと思う。第一に、HDBの居住者によって現在進行されつつあるパブリックスペースの利用と改装、第二に、老朽化したHDB集合住宅のアップグレードを始めとして、集合住宅のデザインと環境を改善するための新しい方法に対するHDBの絶え間ない探求である。


集合住宅の構成要素
シンガポールの人々がこのような高い割合でHDB集合住宅に住んでいることは別に驚くべきことでもなく、集合住宅のデザインには実に様々なバリエーションが見られる。そのデザインは建物の表層から住棟、配置計画まで非常に変化に富んでいるが、そのデザインを構成する要素は、だいたい似かよっている。これらは大雑把に、住棟内部の要素と住棟間の要素としてカテゴライズできるだろう。前者は共用廊下(図2)、エレベーター、ロビー、ピロティ(シンガポールでは、用途が特定されないデッキという意味でヴォイドデッキと呼ばれる、図3)からなり、特に古い住棟では、地上レベルに店舗や施設を持つものもある(図4)。後者には、タウンセンター(図5)や近隣センター(図6)、公園、遊び場などが見られる。

こういった各々の構成要素からは、HDB集合住宅の秩序だった計画に対する居住者側からの空間の解釈を読み取ることができる。共用廊下は実際にはセミ・パブリックスペースであり、そこでは住戸の単位を越えてプライベートな領域が拡張している。植木鉢を置いたり、近所の会話用にイスを備え付けたり、主婦のお喋りコーナーとなるなどして使われている。地上レベルに位置するヴォイドデッキは、「中国式の葬式やマレー式の結婚式など、住戸の内部に収まりきらない冠婚葬祭のための *」空間にもなっている(図7)。ヴォイドデッキの空間のフレキシビリティは、その他にも、住人の集会、交番、キオスク、小売店、幼稚園など多くのアクティビティを収容し、拡張性の高い空間となっている。

タウンセンターは普通HDB団地の中央に位置し、ショッピングモール、レクリエーション施設、図書館、レストラン、駅などの施設と一体化している。つまりHDB団地の心臓部である。近隣センターはスーパーマーケットやカフェなど居住者の日常生活の必要を満たす補助的なタウンセンターとなっている。


コンテクストとアイデンティティ
もしシンガポール人が高層の公共集合住宅を生活手段として受け入れてこなかったら、HDB集合住宅は成功しなかっただろう。Chuaは以下のように述べている。「高層居住を成功させるための最も基本的な必要条件は、このような居住形式をひとつの方法として受け入れることである。 *」HDB集合住宅はまた、居住者の生活形態と必要の変化に適応するため、長い時間をかけて徐々に進化してきている。それゆえ今日では、それぞれのHDB地区は、居住者の空間の使い方や周辺のコンテクストとの関係に応じて形づくられた個別の特徴をもっている。

したがって集合住宅のアイデンティティとは、集住のコミュニティと空間のアクティビティの相互作用、さらに居住者以外の人々による空間の使われ方にも深く関係している。このように、HDB集合住宅が位置するコンテクストは、集合住宅のアイデンティティにとって重要な決定要因となっている。ダウンタウンに位置するもの(図8)や郊外に位置するもの(図9)など、HDB集合住宅の異なった立地条件は、アイデンティティを形成する上で非常に決定的である。もうひとつの集合住宅のアイデンティティに対する決定要因は、その経年期間である。古いHDB集合住宅のパブリックスペースの使われ方は、その住戸内部とともに居住者の快適さを反映したものとなっている。

集合住宅の空間のヒエラルキーは、ダウンタウンにあるものと新しいHDB団地にあるものとでは違いがある。例えばチャイナタウンのHDB集合住宅は、地上レベルや周辺にあるレストランやショップが観光客や地元のシンガポール人に人気となり、他のHDB集合住宅との違いを際だたせている。チャイナタウンの集合住宅の居住者は、自らのプライベートな住戸から地上の「非常にパブリックな」商業スペースへと歩く際に、集合住宅の空間のヒエラルキーの多様なシークエンスを体験する。


アップグレード
90年代初頭からHDBは国家規模のアップグレード計画に着手した(図10)。「老朽化した団地が望ましくない状態になるのを防ぎ、住戸に対する居住者の投資価値が下がらないようにするため *」、古い集合住宅を新しい団地の水準まで引き上げようというものである。アップグレード計画は、次の世代のための環境に再び焦点を当てるために、いかにしてそれぞれの集合住宅のコンテクストや環境を保存、再定義、増進するか、というエクササイズといえる。

このアップグレード計画は、暫定的アップグレード計画、メインアップグレード計画、選別的一括再開発スキームという3つの形をとって実施されている。暫定的アップグレード計画は、HDB地区の環境とともに、住棟の外部のアップグレードに関するものである。メインアップグレード計画は、住戸のインテリアと住棟の環境の双方を改善するものである。選別的一括再開発スキームは、住棟全体の建て替えに相当する。

こうしたことから重要な問題点として浮かびあがるのは、公共集合住宅のアップグレードによって、居住者のライフスタイル、住棟内の様子と機能、また住棟間の関係が、いかに変化するのかということである。例えば、住戸の延べ床面積を増やすための「スペース追加ユニット」(図11)は、インテリアに影響を与えるだけでなく、アップグレードされる住棟全体のファサードをも変化させる。コミュニティのための新しいアクティビティ・スペースを分棟で建設することは、ヴォイドデッキで行われてきた中国式の葬式やマレー式の結婚式などのアクティビティを再配置することになる。また別の側面として、住棟間をつなぐための屋根付き連絡通路(図12)や、車寄せ、ジョギングコース、フィットネスコーナー、立体駐車場など、HDB地区内部の公共施設や公共空間の改善もある。HDBのアップグレードで足したり引かれたりする構成要素のリストは、多様な集合住宅のコンテクストと同様に無数にあるのである。



HDB集合住宅の多様な特徴は、計画された空間とユーザーとの間の絶え間ない変化と形成の現れである。ある国にとって公共集合住宅を成功させるためには、計画当局と住民との理解に基づく全面的なコラボレーションが間違いなく必要である。その結果は、シンガポールの集合住宅の日常に起こる終わりのないドラマの筋書きとして刻み込まれている。

* 文中の引用はすべて、Chua Beng Huat "Political Legitimacy and Housing: Stakeholding in Singapore" (Routledge, 1997, London)による。



profile

Lee Tat Haur(李 達豪)
1971年シンガポール生まれ。
1993-1997ロイヤルメルボルン工科大学(オーストラリア)建築学科、建築学士(優等)取得。
1999-2001東京工業大学大学院 理工学研究科建築学専攻(塚本研究室)、工学修士(建築)取得。
2001- シンガポール都市再開発局アーバンスタディ部門、建築家。
修士制作:東京都営住宅リサイクルプロジェクト

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