約15年前、筆者は数時間だけメキシコに滞在したことがある。ロサンゼルスからサンディエゴを経由し、確かティファナの街に寄った。自動車を使って入国したが、歩いて国境を渡る人もいたのを覚えている。このとき、陸続きの国境をはじめて実感した。海が国境を自動的に決定する島国・日本ではなかなか味わえない。

 ところで、筆者が好きな画家の一人に、メキシコに亡命した美貌のシュルレアリスト、レメディオス・バロがいる。シュルレアリスムに関して、面白い作り話がある。1938年にアンドレ・ブルトンがメキシコを訪問したことはよく知られているが、酒場で談笑していた男が理由もなく突然撃たれるなど、信じられないような事件が次々に起き、「メキシコでは、シュルラリスムのもつ役割は皆無。なぜなら、メキシコ自体がまったくシュールなのだから」と語ったという。もっとも、実際に彼は現地でシュルレアリスム的な画家フリーダ・カーロを見い出す。

 これはダリがニューヨークに到着して、シュルレアリスムが現実になっていると感じたエピソードに似ていよう。発見されたアメリカの大陸は、ヨーロッパの他者であり、どこかで夢の世界になっている。画家のカーロやリベラ、建築家のファン・オゴルマンも、近代的なリアリストでありながら、幻想的な世界をもつ。なお、筆者は、他者性に引き裂かれたオゴルマンのアイデンティティについても論じたことがあるので参照されたい
(http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/nmp_j/review/0615/archi0615.html)

 だが、この構造はもう一度、反転する。今福龍太によれば、ラテンアメリカではすでに19世紀末に「モデルニスモ」の概念が成立しており、スペイン経由でヨーロッパに広がったらしい(『SD』1998年5月号)。おそらく「モデルニスモ」はシュルレリスムにも流れ込む。とすれば、ラテンアメリカはシュルレリストによって、再発見されるべきして再発見された場所なのである。シュルレアリスムはもともとメキシコ的なものを持っていた。一方、メキシコの画家は無意識が覚醒され、シュルレアリスムに影響を受ける。つまり、合わせ鏡のようにイメージが増幅していく。

 さて、前回の堀井氏のテキストは、旅行で訪問したメキシコを媒介にして、日本人と西欧人が相互にどのような他者として眺めているかを論じてもらった。これはいわゆるオリエンタリズムの問題系に含まれる。だが、今回はメキシコに滞在し、実際に研究活動を行った赤川氏によって、異なる他者の問題が提起された。国内の分断化である。

 1960年代は、アメリカの黒人暴動が起きた時、市長は「今後、州境は市内に引かれることになろう」と宣言し、ベルリンでは東西を隔てる壁が建設された。これらは人種や政治的なイデオロギーによる、国内の分断である。しかし、赤川氏がとりあげるのは、1990年代のグローバリゼーションと情報革命がひきおこす、都市の変化だ。なるほど、グローバリゼーションと情報化は、国境を越えて、人々をつなげていく動きのように思える。だが、接続と切断の両方が同時に進行しているのだ。集中と分散も平行するだろう。

 サスキア・サッセンのグローバル・シティ論によれば、多国籍企業の資本が集中する都市では、裕福な人々へのサービスを支える低賃金の移民労働者も集まり、所得の両極化が発生する。両者は近接しながら、交流をもたない。デュアル・シティ、すなわち都市が二重化されているのだ。後期資本主義のシュルレアリスム的な風景かもしれない。

 以前から、富める「発展」と貧しい「発展途上」は、メキシコの近代化に伴う問題だった。オクタビオ・パスのメキシコ論『孤独の迷宮』は、両者を二つに分割する考えが科学的であり、社会的な現実に即していることを認めながらも、異なる階層が複合した「もうひとつのメキシコ」の概念を提案する。人間が二重性をもつように、文明や社会もそうなのだという。交互に隠蔽しあう、メキシコの「発展」と「発展途上」。だが、「メビウスの帯のように、それには内側も外側もない。他者性は向こうの、外にあるのではなく、此処、内にある。いわば、他者性とは、我々自身なのである」という。他者性が自己を形成する。サッセンの指摘するデュアル・シティの現象は、これの再編成なのだろうか?

 筆者がナビゲートするシリーズでは、都市と他者の問題を扱う。ここ数年、ずっと宗教と建築・都市の問題を考えていたことから、他者とは何かに興味を持ちはじめたからである。他者論は、様々に論点を広げられると思う。例えば、移民や民族の紛争、あるいは都市を脅かす犯罪や災害といったセキュリティの問題。残念ながら、一億総中流化で弛緩しきっていた日本は他者への想像力に乏しかったが、もはや激動する21世紀には、この問題を避けて通るわけにはいかない。だからこそ、今他者論が問われるべきなのだ。

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五十嵐太郎(Taro Igarashi)
1967年パリ生まれ。東京大学工学系大学院修了。博士(工学)。中部大学 工学部建築学科 講師。東京大学、東京芸術大学、日本女子大学、明治学院大学、大阪芸術大学、芝浦工業大学/非常勤講師。著書に『終わりの建築/始まりの(講談社)、 『近代の神々と建築』 (広済堂出版)。編著に『READINGS: 1建築の書物/都市の書 物』、『20世紀建築研究?INAX出版)、共著に『磯崎新の建築談義』(六耀社)な ど。ギャラリー・間「空間から状況へ」展を監修。『日経アーキテクチュア』にて連 載中。ウェブサイト「cybermetric」で活動の軌跡を公開している。
URL=http://www.cybermetric.org/

<その他、連載中のウェブサイト>
10+1ウェブサイト「五十嵐太郎 Photo Archives」
URL=http://tenplusone.inax.co.jp/
online bookstore bk1 「サイエンス/テクノロジーサイト・建築」
URL=http://www.bk1.co.jp/


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