本文では十分に触れることが出来なかった点について、五十嵐氏のコメントに触発されたのでWEBのinteractivityを活かして何点か付加えたいことがある。「シュルレアリズムの夢の場所」−メキシコ、と五十嵐氏のタイトルにあったが、この背景にある、私が日本やアメリカから見ていた時には解らなかった「メキシコ性」(これがオクタヴィオ・パスのいう「もうひとつのメキシコ」なのかもしれない。)について考えてみたい、それは正にオゴルマンの抱える矛盾と彼の作品に顕著に現れている。
 メキシコにおけるキリスト教は、カトリック95パーセントということになっているが、その内容といえば非常に複雑で、先住民の宗教と融合したり、またカトリックの宗教観そのものをアレンジしたとしか考えられない不思議な行事がある。3月頃の「セマナ・サンタ」(いわゆるイースター。)、11月の「死者の日」(日本のお盆に近い行事で、カトリックの教義に反しているとしか考えられない。)、12月12日の「グアダルーペ聖母祭」はメキシコ最大の宗教行事でメキシコ・シティのグアダルーペ寺院(注1)には数十万人集まる。
 ここで私は日本にキリスト教が流布した時に、キリストの物語のアレゴリカルな理念は理解されず、「マリア信仰」に見られる偶像崇拝の方が、受け入れられやすかった という事実と、メキシコの「グアダルーペ信仰」の類似性を指摘したい。日本の場合には観音信仰が変成したとも理解できるが、メキシコの場合は、「受難」のキリストはメキシコ人自身(とその歴史)と同一視され、そのため信仰の対象は、キリスト自身から、キリストをやさしく見守る、聖母マリアの方に向かったのではないだろうかと考えた。そう考えた背景に、「セマナ・サンタ」の時の、「もっとも大きく重い十字架をいかに苦難を伴って引きずれるか」というコンテストがある。(つまりはキリストの受難の追体験。)始めは、テレビのヴァラエティ番組の企画かと思っていたら、ニュースで何度も報道されるので、これはれっきとした「宗教行事」であることが判明し、まことに驚いた。
 ここで指摘したいのは、メキシコ文化の持つ二重性は、スペイン経由の近代国家の「理念」と、伝統的なアステカ文明という「無意識」世界の相克ではないかということである。またスペインからの独立運動と反アメリカ精神が要請する、メキシコとしてのアイデンティティの形成が内包する矛盾である。(注2)
 この矛盾はオゴルマンによる、カーロ/リベラスタジオにも如実に表れているし、オゴルマンの大学都市の有名な図書館にも現れている。(注3)
 カーロ/リベラスタジオは白黒写真で見れば、コルビジェの初期作品のように見えるが(実際、1924年代にオゴルマンはメキシコでのコルビジェの理念の具現者を自認しており、オゴルマン自身、コルビジェの「Towards a New Architecture」をきっかり4回読んだと言っていたそうである。)、外観の色はアズル・アニルといわれる、先住民から伝わる魔よけのマットブルーと、Tezontleと呼ばれる火山性の石の赤色(オクタヴィオ・パスが「乾いた血の色」呼んだ。)であり、サボテンの塀に囲まれ、スタジオの中はフォーク・アートで埋め尽くされていた。
 このオゴルマンの作品の「理念」と顕在化してくる先住文化の「無意識」の相克は大学図書館で、最後の「調停」を迎え、自邸に至って調停不能となり、最後は自分自身の内部の「理念」と「無意識」が調停できなくなって、自死という結果になったのではないだろうか。


注1;アステカ帝国の神殿を解体してその解体材料で建設されたが、もともとのアステカ帝国の首都テノチティトランが湿地帯にあったため、現在なお地盤の不同沈下で保存工事が行われている。仏教的には、因果応報という感覚だが?。

注2;メキシコ人に言わせると、“United States” とはメキシコ合州国のことで、アメリカのことではないそうである。なぜか日本語ではその事実を尊重するかのように、アメリカ「合衆国」と言う。またメキシコには建国当時から、理念的には、フリー・マーケットに任せる資本主義を補完する制度がいくつかあり、その一つが IMSS(Instituto Mexicano del Seguro Social; メキシコ社会保障機構)と呼ばれる国民健康保険制度とその制度の具現化した病院システムである。アメリカに国民健康保険が無いのに比して「理念的」には優れていると考えられる。IMSSの建築(一例は本文Fig.6で例示したが。)はモダニズム建築として優れたものが多く、「理念」の流布装置としてモダニズム言語が利用されていたことがわかる。想像がつくように、「現実」は別である。

注3;10+1、22号、118p、「メキシコのモダニズム」、拙著、INAX出版、2000年。参照。


P.S. 街角スナップ
教会の真向かいにある肉屋。仏教的殺生観からすると抵抗があるが、この「理念」と「現実」の超越がメキシコなのかもしれない。建築工法はオゴルマンがカーロスタジオを設計した頃とあまり変わらない。壁が斜めになっているのは、カメラが広角だからでも、錯覚でもなく、実際斜めになっているのである。一年のほとんどが真夏日のモンテレイでは、建物が溶けてくるようにみえてくるほど、熱気で頭がボーッとしてくる。確かにメキシコではシュールレアリズムは意味をなさないのかもしれない。現実そのものがシュールだから。



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