クアラルンプール 「隣人は他者である」
葛西玲子
1.
もし、わたしたち日本人の社会が共通の言語と認識を所有し、それを前提に構築されていることを当然と考えているとすれば、マレーシアはそれとはある種対極の価値のもとに形成されている国家だ。
マレー人、華人、インド人を軸に複合民族で構成されるこの社会においては、共通の言語(公用語の存在はいうまでもないが)と認識が存在しない、というところから全てが始まる。
ニュージェネレーションのカルチャー発信の旗手、アミール・モハマッドが一昨年末に撮り、マレーシア初のインデペンデントフィルムとして海外の映画祭でも評判をよんでいるデジタルムービー「Lips to Lips」は、そんなクアラルンプールの日常を垣間見る手がかりとして興味深い。
同一民族間でも出身地により方言がまったく違い、受ける教育もばらばらな国だから、この映画に登場する雑多なキャラクターたちも、それぞれ「違った種類の英語」をしゃべっている。そのニュアンスの違いがこの社会になじみのない観衆にはおもしろさの基本となる。
小学校は公立のマレースクールに通い、ハイスクールは華人学校、大学はオーストラリアに、などというように教育の選択は親にゆだねられる社会だから、華人でも中国語の読み書きができない、マレー人でも英語が母国語などということがよくあるのだ。
言語が人の思考回路や意識を形成するとすれば、こういった言語がばらばらな社会で暮らす人達は日常の会話のなかで、お互いがいったいどんなレベルで意思や思想を共有しているのだろうか。 もうひとつ例をあげてみたい。昨年2月に国際交流基金の助成により世田谷パブリックシアターで初演され、その後8月にクアラルンプールで改訂上演された芝居、日本とマレーシアの共同制作作品「あいだの島」である。
演出・脚本のジョー・クカサスはインド系で、英国式教育をインドで受けており、共同脚本のカム・ラスランはマレーとイギリスの血を引き、イギリスで教育を受け、音楽のサイダ・ラスタムはマレーと華人のハーフ、照明のマック・チャンは中国系の学校に通った華人。全員マレーシア人だ。互いがまったく違った教育のバックグランドを持ちながら、コミュニケーションとプロダクションはすべて英語で行なわれる。 マレーシア人と日本人が繰り広げるこの芝居に添えられた字幕のテキストは、英語と翻訳された日本語、多少のマレー語が飛び交い、わざとすべてに字幕をつけなかったために、「何が起こっているのかよくわからなかった」と不満に思った観客は多かったらしい。しかし「それこそが私達の住む都市クアランプールの日常だということも伝えたかった」とクカサスたちは語る。
自分の隣人がどんな言語で何を考え、何を信じて何を食べて、どんな音楽を聞いてどんなテレビ番組を見ているのかがよくわからない、という日常。
2.
このごちゃまぜ複合都市における、よりどりみどりの豊かな屋台食、拡声器を通して朗々と響き渡り早起きを助けてくれるコーラン、濃厚なヒンズー映画の宣伝、街を練り歩くチャイニーズのまつり太鼓の音・・。熱帯の重たい空気のなかでにぎやかに繰り広げられるにおいと音と色彩は、ビジターの好奇心を充分にそそってくれる。
ラマダン(断食節)に空腹を我慢するモスリム(イスラム教徒)たちの横で、こうばしい北京ダックの香りがたちこめたりしているこの国が比較的穏やかな政情を保っていられるのも、過去に流された血が「諸民族間の相互理解と友好関係をつくりだすこと」という国民統一評議会の理念として機能しているからだろう。
それを隣人への「寛容」と捉えるか「我慢」と捉えるか「無関心」と捉えるかは、ここに生きる人たちそれぞれの意識に委ねられるわけだけれども。
しかし、おとなりの都市国家シンガポールが同じく複合民族国家でありながら、華人中心で英語教育を徹底させ、コスモポリタン化することに全力投球しているのに対し、マレーシアは信教の自由は保障されるが国教はイスラム、公用語はマレー語で、国民の過半数を越えるマレー人と原住民への優遇政策「ブミプトラ(土着の民)」をとっている。
一般的にはマレーシア経済の実権は華人系がにぎっており、彼等は「マレー人は働き者でない」と愚痴ったりもするが、その反面ブミプトラであるだけで、大学に入るのも公職につくにも優先され、公共事業などは特にブミプトラの存在なしでは絶対にかかわることができない。
マハティール首相は政策として、壮大なる「マルチメディア・スーパーコリドア計画」を掲げ、2020年までに先進国の仲間入りをすることを公約してきた。プランテーションの漆黒の密林に数年前に完成した黒川紀章氏による新空港と、クアラルンプール市内を結ぶ70キロほどのあいだの土地に新都市プトラジャヤを開発中だが、これは4,581ヘクタールの敷地にすべての行政機関を移転させ、すべての都市機能を内包するという巨大なスケールの計画となっている。首相官邸や国立モスクはすでに完成しており、建築界の重鎮ヒジャス・カストウーリ氏による大通りの計画や、さまざまな建築家による各施設や集合住宅などのプロジェクトは、経済危機のあおりを受けてスローダウンしながらも続行中だ。
しかし、このマレーシア人によるマレーシア人のための理想都市の全体像が茫洋として未だ見えてこないのは、強力なマスタープランナーがいないからという理由だけではなく、共通の社会意思が欠如しているからのように感じられる。
加えてこのプロジェクトはブミプトラ色が強く、最近は健康も心配される高齢のマハティール首相がどこまで牽引することができるのか、ついには巨大な廃墟とならなければよいのだが、という不安の声もちらほら耳にする。
3.
なにはともあれ、クアラルンプール市内がこの数年に遂げた変貌はめざましい。
シーザー・ペリ氏がデザインした、トウモロコシのようにも尖塔のようにも見える、高さ452メートル、世界最長のペトロナス・ツインタワーの出現は、あきらかにクアラルンプールの新しい象徴となっている。前述の「Lips to lips」だけでなく、同じく一昨年インデペンデントフィルムシーンにセンセーショナルに登場した性転換者たちの売春を描いた映画「Buka Api」の冒頭シーンにもツインタワーが登場し、クアラルンプールが舞台であることをただちに暗示させた。
ツインタワーを中心に開発されたKLCC(クアラルンプールシティセンター)の目がまわるほど広いショッピングモールやまわりの公園は、終日暑さから逃れ憩う人々でごった返し、新しいハイウェイや新交通システムLRT(Light Rail Transit、新しい路面電車)が次々と整備され、悪名高き交通渋滞が緩和されつつある。
不況のため建設途中で中断したまま数年間野ざらしになっているホテルやコンドミニアムの構造物を眺めると、この都市の行く先が案じられるところもあるが、ここ数年で街の持つリズムが驚くようなはやさで変化していることは確かだ。
周到な計画がないままに進められたインフラ計画で市内の中心が散漫に広がったために、街中は気ままなそぞろ歩きがしにくい構造になっているが、目抜き通りのひとつ、ブキット・ビンタンは遊歩道を拡張して、おなじみスターバックスやスシ・バー、カフェレストランなどのオープンエアな環境を整え、生まれ変わった回遊スポットとしてにぎわっている。
また、中心地から15分ほどはなれたバンクサーに軒を連ねるカフェやレストラン、ギャラリーは、最先端のデザインとスノッブさを誇り、コスモポリタンなにおいをプンプンさせて、クラブシーンも近隣国のどこよりも盛り上がっている。100万人都市でありながらろくな本屋がないと嘆いていたインテリ層を狂喜させた待望の紀伊国書店も、昨年KLCCにおごそかにオープンした。
「この街が好きなのは、フレキシブルなところだ」と言った友人がいるが、確かにここクアランプールでは都市のかたちも人の意識も混沌として流動体のようであり定まらず、優柔不断のように見えてしなやかでもある。
隣人が他人(民族)の寄り集まりであるモザイク社会が、いずれ集約されてひとつの旗のもとに社会的な意思に発展していくものなのか、それとも結局国家統一の幻想に終わるものなのか、その行方はとても混沌としている。
ただ、こういう都市が成熟していく過程で、これまでにない新しい言語や意識を生み出していく、胎動のようなものを感じているのは確かだ。
profile
葛西玲子
1963年東京生まれ。元ピアニスト。ライター、コーディネーターなどを兼業。桐朋学園大学音楽学部を経て、米国ニュージャージー州立ラトガース大学芸術学科音楽修士課程終了。その後ブダペスト(ハンガリー)などに住み、東京に戻りライティング・プランナーズ・アソシエーツに勤務し「照明探偵団」の企画や海外プロジェクトに携わる。
一昨年末シンガポールに拠点を移し、東南アジアを中心に目まぐるしい移動を続ける日々。
謎のアスパラガスの研究も細々と続行中。
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