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・目論見と結果
今回のeyesは、2年前ベルラーヘ・インスティチュートがまだアムステルダムにあった時代に、執筆者である鳴川氏の、ある設計課題(プロジェクト)の成果を紹介することを目論んだことから始まり、彼との3ヶ月に及ぶ対話を経て出来上がった。
・寄り道が産む、副産物という近道
実は初期段階の原稿をこの連載の企画者であるTN プローブへ送った際、僕は以下の質問を受けた。
「この連載は"都市の渚"というコンセプトで進められる予定だが、第1回目の小沢氏との内容に対して、今回どのような関係性を考えているのか?」「連載第2回目に執筆者として鳴川氏を起用した理由は何か?」
結局この質問に、僕は返事を出していない。
それは、小沢氏が醤油画資料館の仕事を僕に依頼した理由が、
>> じつは建築家の知り合いが他にいなかったということ。
>>普通の建築家よりは時間がありそうに思えたこと。
と参考資料1:醤油画資料館への「誘い交換日記」の中で記されているように、単にいま鳴川氏がアムステルダムに住んでいることで密な打ち合わせが可能であったことや、物理的にこのタイミングでこの件に対し時間を割くことができる人であったなど、きっかけ自体は他愛のないものだった。先行的な強い理由がそこにあるわけではない。もちろん、最初からこの連載のどこかで執筆をお願いすることになっていただろうが。
しかし、こうしたきっかけは本文で鳴川氏が語ったような初期条件の一種であって、「インプットの真剣さとアウトプットの意外さ」が反転するかのように、「発明」という意外なインプットから生じる真剣なアウトプットとして、彼と共に、このシリーズの第2回目という敷地への寄港を目論んだ。
・執筆者ともう一人の編者「チューター」
鳴川氏は発明家である。もちろん建築家は発明家であることは言うまでもないが、建築家である彼を先ずはこう言おう。このeyes全体の趣旨は、都市を「発見」することに他ならない。さらに願うことならば、それは「発明」の為の真剣な「発見」でありたい。
ここで紹介した鳴川氏のプロジェクトは、アレハンドロ・ザエラ=ポロ氏がチューター(注1)を務めたBerlage
Institute Amsterdam(BIA)に於いて行われたものである。ポロ氏は建物に要求もしくは問題とされる明確な目的を発見し、それを数量化するリサーチに基づき、その数字の発明的な「操作」によって、建築全体を統合してゆく。その「操作」の結果として出来上がる「意匠」は美しく、表現としての強度を合理的機能の発露を通じて達成している。しかしながら同時にその印象的な自由な形状は逆説的に、限りなく、原データの変化や新しい機能、経済的要請に対しては不自由である。またそれが一つの建築の設計ではなく、ダイナミックな多様性と変動性を反映した都市を構想する場合、その方法論に拮抗する方法がパラレルに導入される必要があるのではないだろうか。
鳴川氏はそのプロセスに順じながらも、設計全体の統合に向かわずして、都市を取り扱うことの可能性を有する ― そう、建築現場用語で云う「成り」といった考え方を持った独自の成果を創りだそうと試みた。すなわちこれはチューターのメソッドからのミューテーションを開始している、訛りの入ったプロジェクトなのである。
(ちなみに、彼はTN プローブでも行われる、スター達による一大「コレクション」ともいうべき、あの"MUTATIONS展"を知らずしてこの言葉を使っていたのは、実に面白い。)
・発生するバナキュラー、発見するバナキュラー、
発明するバナキュラー、そして派生するバナキュラー
鳴川氏のプロジェクトは基本設計までの段階であって、まだまだ乾いた単相な印象を与えるに留まってはいるものの、ここには「発明」としての設計が進行しながら「多様な表情をもった連関する全体」を形成してゆくポテンシャルを見ることが出来ると、編者は感じている。それは「生きた場所」をつくってゆく為の、また一つのアプローチとなろう。
・散歩とツアー
今回のweb記事の構造は、「種明かしの、まえがき兼あとがき」という「随筆」に対して、「アムステルダム国際客船ターミナル設計案」というプロジェクトの「論文」、そしてその2つをブリッジする12枚のヘッドカレンダー画像という構成になっている。いわば成り行きまかせの散歩と図られたツアー、そして広告ポスターとしてのヘッドビジュアル群といった具合だ。但しこのツアーはweb上のものであるために、目次を媒介としてスキップして寄り道といった<自由行動>をすることも可能にしてある。
読者がその中で自由に旅をし、同様が多様であることを感じてもらえれば幸いである。
実力のある建築家達が組む巧妙なツアー(=レクチャーそして魅惑的な本)に縛られず、自由な己の旅と目を持つために。
補稿
最後にもう少し補足を。
この回は様々な事情でupに至らないまま、入稿から既に半年が経ってしまった。それゆえTN プローブより「鳴川氏はBIAへ渡って、何故その視点を得ることができたのか?」というリクエストがより強く出た。それに対しその一助となる説明をここに加える。
簡単に言えば、多くの日本人(鳴川氏を含む)がヨーロッパにある「学校」に来ると、論理的な説明が達者になってゆく。というより、ゆかざるをえなくなる。それはヨーロッパの創造の方法そのものなのであるが、反面その論理的な説明が上手くなればなるほど、その説明と実際の制作過程に大きくギャップが生じる。こうしたプレゼンテーションをしてゆく際に生じる典型的な矛盾を、ここオランダで彼は数多く実際に見、体験した。こうした体験は海外に出た学生が共通してもつ一種の暗黙の了解事項だ。
こういった背景の説明がやや省略されて、その後に現れてきた個人的な視点の事例を一気に記述した為「分かりにくい」という印象があったのかもしれない。
僕としてはこの連載を通じて、この「内なる目」が単体でなく、ある種類と量を集められたときに、突如それは読み手に対して突然変異を起こし、強力な全体像を創り出すことを企図している。それらの構造は各回の内容自体の生成プロセスにおいても同じように、いわば入れ子状にあって、一度理解の手がかり(気づき)を得た読者は芋づる式に各回の部分へ、そして全体の真意へ到達できることが、僕の希望なのである。
鳴川氏の回においては、学校という場所において行われる説明の常識に対して、プロジェクトという具体的な実例を使って多重な説明を正直に記述し、この環境からの気づきを「大いなる視点」に成りえる「内なる視点」として提示したと確信している。
読者の方々には助言・批評などを含め、今後の連載の行く末を見守って頂ければ幸いである。
注1:1チューター/1テイストという標準化について
余談として実は、僕はこのベルラーヘで昨年2ヶ月半、彼の大規模都市計画のスタジオを選んだが、他の学生全員がミニ・アレハンドロ (A),( B), (C)といった結果を完成させる中、僕一人こうした疑問が拭えず、結果、完全に別の方法を選んだ。この内容に関してはいつかまた別の機会に触れたい。
profile
遠藤治郎(Jiro Endo)
| 1966年 |
東京生まれ。建築家。 |
| 1991年 |
武蔵野美術大学造形学部建築学科卒
(株)アールアス設計工房勤務 |
| 1995年 |
(有)インテンショナリーズを大堀伸、鄭秀和と共に共同設立
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| 1998年 |
同社辞職後、guesthouseを遠藤幹子と共に設立
同年オランダへ移住。事務所名をguesthouse-Amsterdamと改称。 |
| 1999年 よりベルラーヘ・インスティテュート在籍。 |
| 2001年 |
引越にともないguesthouse-Rotterdamと改称。 兼業育休主夫。 |
| 2002年 |
1月より国立モラトワ大学建築学部建築学科研究室名誉助手兼Guest Lecturerとしてスリランカへ
1年間単身赴任中。guesthouse-Rotterdamに加えguesthouse-Colomboを設立。 |
guesthouse渡蘭後の物件としては
コーネリアススタジオベランダ改装〜東京都目黒区、
ラフォーレ原宿ショップカード什器〜東京都渋谷区、
ギャラリーロケット新築工事/大堀伸(general design)と共同〜東京都渋谷区、などがある。
現在オランダでの実施予定の小物件も進行中。
その内の一つとして、教育的インターネット端末機能を含む自動販売機改造設計監理および一部施工の物件がある。Vlaardingen市Holy地区にある図書館兼中高等学校に設置、発注者はオランダ人メディアアーティストのMerel
Mirage、近日公開予定。
またアムステルダム市内にある、オランダ型家庭菜園団地(Volkstijn)内の監理施設建物の全面改修の設計を今回の執筆者の鳴川氏と共に手掛け、2002年内に施工が始まる予定。
執筆歴としては、「新建築」2001年2月号、「スタジオボイス」No.299,300、「リラックス」No.45,46(案内猿として)ほか。
また「建築知識」に2000〜2001年にかけては毎奇数月号に「オランダ通信」(DHL/ダッチホットライン)を連載。また2001年1月号より毎月「スリランカ通信」を連載中。
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